太田宿ゆかりの人々


◆皇女和宮(こうじょかずのみや)

【弘化3年(1846)~明治10年(1877)】
 文久元年(1861)仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍徳川家茂に御輿入の際、前代未聞の大行列が行われ、同年10月、太田宿本陣に宿泊しました。
 行列は総勢およそ2万人、前後4日間にわたって続き、一般の旅人は7日間にわたって通行が禁止されました。
 沿道には砂が引き詰められ、竹矢来が組まれ、見苦しい家は修理されました。

 太田宿本陣福田家の正門もこのときに新築されたと伝えられています。


◆徳川慶勝(とくがわよしかつ)

【文政7年(1824)~明治16年(1883)】
 尾張藩主。

 江戸城が明け渡されたあとも奥羽諸藩や甲信越地方の一部の藩は、新政府に服従しなかった。
 そのため討伐軍が組織され、その甲信方面の総督として徳川慶勝が任ぜられました。
 閏4月9日、慶勝は本部を美 濃太田宿の福田本陣に進め、ここに滞在すること75日に及びました。
 この間、福田太郎八は御用金千両を寄進したほか、親戚を説いて同じく千両を寄進させたといわれています。


◆伊能忠敬(いのうただたか)

【延享2年(1745)~文政元年(1818)】
 上総国の生まれで地理学者、暦学者。

 寛政7年(1795)に家督を譲り、江戸に出て幕府天文方・高橋至時に天文・暦学・測量を学ぶ。
 寛政12年(1800)に蝦夷南東海岸を測量し、以後18年間にわたって日本全国を測量し、実地測量による地図を制作。
 「大日本沿海輿地全図」などを著しました。

 文化6年(1809)8月には中山道太田宿も測量しています。

 官板実測日本地図

◆兼松嘯風(かねまつしょうふう)

【承応3年(1654)~宝永三年(1706)】
 美濃国加茂郡深田村の生まれでこの地方の俳人。名前は甚蔵。

 嘯風は、経済的に恵まれていたこともあり、風雅を好み、俳諧を嗜んでいました。
 当初は、北村季吟の門下で活動していましたが、松尾芭蕉の蕉門十哲の一人である内藤丈草と出会い、蕉門に入りました。
 その後、蕉門十哲の一人各務支考に依頼され『国の華』の第四巻「藪の花」を選集し、この地方の俳諧をリードしました。

句碑「山間の雪の中ゆく筏かな」

◆田宮如雲(たみやじょうん)

【文化5年(1808)~明治4年(1871)】
 尾張藩側用人、家老。

 慶応四年(1868)、尾張藩は、名古屋城の北の守りとして、太田代官所を北地総管所と改称し、田宮如雲を総管に任命しました。
 同時に如雲は「御国主様より御所への御勤めならびに土地人民の守りの為」として農兵隊である草薙隊の新兵を募集・増強し、その指揮を執りました。

 また、坪内逍遙は「田宮如雲といへば、木戸や西郷なぞにも名を記憶されてゐた尾張藩屈指の傑物であつた」と語っています。


◆武田耕雲斎(たけだこううんさい)

【享和3年(1803)~慶応元年(1865)】
 水戸藩士。

 元治元年(1864)、藤田小四郎らの筑波山挙兵をうけて「天狗党」の首領となり、同志約900人を率いて西上しました。
 京都の一橋慶喜に直訴しようとしましたが失敗し、越前敦賀で斬首されました。
 このとき、太田宿では無血通過により、町は戦火を免れました。
 幼い坪内逍遙もこの一行を店先で見たことを後に語っています。


◆播 隆(ばんりゅう)

【天明6年(1786)~天保11年(1840)】
 越中国生まれ。

 浄土の教法を信じて念仏の行者となり、山岳信仰の道を歩みました。
 各地に滞在して布教活動にあたり、独特の筆遣いによる「南無阿弥陀仏」の六字名号碑を多く建立しました。

 播隆は、文政11年(1828)に槍ヶ岳の登頂以来、頂上に仏像をまつり、参道を開きました。

 天保11年(1840)に脇本陣林家で没しました。
 没後、下町の弥勒寺に葬られましたが、その後廃寺となり祐泉寺境内に墓碑が移されました。

       祐泉寺

●姫道中・大名行列など

 

 徳川幕府は、天皇家と外戚関係を持ち、古来からの権威を利用しました。
 この結果、皇族や公家から娘を将軍の夫人に招いていました。

 また、金沢藩などの諸大名およそ30藩が参勤交代に より中山道を通行し、太田宿で宿泊や休憩をしました。
 正保4年(1647)には朝廷からの奉幣使が日光廟の社前で宣命を読んだ式がありました。
 以後これが慣例化し、日光例幣使として4月上旬に太田宿を通過しています。